アイデアや才能は枯渇するものなのかもしれない
数年前まで、私は大槻ケンヂを神のように崇めていた。
とにかく彼の紡ぎ出す言葉、世界観が大好きで、音楽作品は勿論、小説やエッセイも読んでいた。
アイデアや才能は枯渇するものなのかもしれない。
推理作家が、一生のうちに書ける優れた推理小説の数は決まっていると聞いたことがある。
実際どんな大家でも、数冊しか傑作はない。
音楽家も文筆家と同じ事が言えるだろう。
作る作品すべてが傑作、素晴らしい! というアーティストは見たことがない。
芸術家は不幸な方が奇抜な作品を生み出せる
筋肉少女帯が活動休止したあたりから、徐々に彼の作品は質を変えていく。
(文字通り徐々にであって、特撮でいきなり変わったわけではない)。
作品を出すごとに(詞の面での)変化が顕著になっていった。
皮肉なことに、彼の精神状態が安定してきたあたりから、作品の質の変化が見られる。
芸術家は不幸な方が奇抜な作品を生み出せるのだろう。
「詩人の末路は哀れと聞くぜ」というのは筋肉少女帯の「サーチライト」(「キラキラと輝くもの」収録)の中の一節だが、大槻ケンヂの詞はどこへ向かっているのか。
「明日は君の狂わした鳩が飛び立ってゆく日なのだから」、こちらは頭脳警察の「詩人の末路」(「誕生」収録)。
いつかまた、大槻ケンヂのように、私の心を震わせる詩人が現れるのを待ちたい。
2010.12.17 Freakz
(追記)
若い頃の大槻ケンヂの詞が神がかっていることは事実だ。
しかしあの迫力を今の年齢まで持続させるなんて無理な話だ。
「カリブロなんかは19で死んだ」という詞も「サーチライト」に出てくるが、破滅へと向かってしまうことになる。
今の大槻ケンヂの詞も、今の私は好きだ。
私も年齢を重ね、趣を感じる受容体が増えているのかもしれない。
作風が変わっていくことは当たり前で、それを批判するのは受け手のエゴでしかない。
…と12年前の自分に説教したい。
2022.3.11 Freakz
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